2012年12月24日月曜日

仏教:仏の教えとはこの世界そのもの

道元にとっては、ほとけの教えとは、この世界そのものだった。

仏心というは、・・・、山海国土・日月星辰なり。

仏教というは、万象森羅なり。

また、道元独特の対比表現で、次のようにも書いている。

ほとけ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。

仏教:道元の仏教とは

聞き慣れた仏教、という言葉。

道元は、この巻で、仏教について、次の定義を行っている。

諸仏の道現成、これ仏教なり。

つまり、仏の教え、行いが、仏教であるという。

私たちが今日使う、宗教の一つとしての仏教、という意味とは大きく違っている。

さらに、道元は理論を展開し、三乗十二分教、九分教こそが、仏の本来の教え(=仏教)であり、これを体得しないものは、仏を継ぐものとはいえない、という。

2012年12月11日火曜日

行仏威儀:仏の行いは自由自在

道元によれば、仏の行い、行仏威儀は、無礙すなわち自由自在である。

それは、草鞋のなかの足の指の動きであり、おならの音であり、うんちの香り、であるという。

また、道元独特の時間論も、この巻で展開される。

古今の時にあらずといへども、行仏の威儀忽爾として行尽するなり。

行仏威儀は、過去のある時に行われるのではない、現在に行われるのではない。ただ、それが行われる時に、行われるのである、と道元は言う。

行仏威儀:人間中心主義を批判

道元は、この行仏威儀の間の中で、仏という存在を通して、人間中心主義を批判している。

仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。

諸仏は唯人間のみ出現すといはんは、仏祖のこん奥にいらざるなり。

道元にとって、仏とは、人間の教えということではなく、自然の法則のようなもの、をイメージしていたようだ。

行仏威儀:行仏威儀とは何か?

行仏威儀。難しい言葉だ。現代の人間には、まったく何のことかわからない。

道元は、この巻の最初と最後で、次のように書いている。

諸仏かならず威儀を行足す。これ行仏なり。

法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。ともに行仏の威儀なり。

仏が行う、仏特有の行為、とでもいったところだろうか?

この間の中では、道元独特の表現で、その行仏威儀について、書いている。

2012年11月25日日曜日

仏性:仏性は成仏しないとわからない

仏性の道理は、仏性は成仏するよりさきには具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。

成仏、つまり、悟りを開き、仏になってからでないと、仏性とは何かを、知ることは出来ないと、道元は言う。

言われてみれば、至極当たり前のことだが、成仏できない一般人は、仮に自分の中に仏性が宿っているとしても、それがどんなものか、理解できない、ということだ。

仏性:仏性はいつ現れるのか?

同じく、仏が語ったとされる言葉。

欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前。

仏性の意味を知りたいのならな、時節というもについての因縁を理解しなければならない。もし、時節が至れば、仏性は、目の前に現れる。

時節の因縁とは何か。道元は、それを、簡単には説明していない。

道元は、独自の時間論を持っている。この時節という言葉についても、道元は、独自の解釈を持っている。

しかし、その時節を理解できれば、仏性が現前するという。

道元は、自らは答えを与えずに、それを自分で摑み取るようにと、私たちに説いている。

仏性:すべての者に仏性は宿っているのか?

すべての者には、仏性が宿っている。一切衆生、悉有仏性。

ブッタが語ったといわれる、大乗仏教に置ける、非常に重要な考え方。

仏僧が、挨拶する際に、人々に合掌することも、それは、すべての人間の中には、仏が住んでいるからだとされている。

しかし、道元は、その言葉を、そのように単純には捉えていない。

その、深い思考により、私たちが、先の言葉を単純に受けていることに、道元は、大きな冷や水を浴びせかける。

2012年10月30日火曜日

看経:看経のプロセスを詳細に解説

洗浄で、用を足すための詳細なプロセスを、ことこまかに解説した道元。

この巻では、看経のプロセスを、またも詳細にわたり、説明している。

看経とは、僧ではない一般の人が、お布施をして、僧に依頼し、依頼された僧が、その依頼者のために、法華経などの主要なお経を、静かに読む、というプロセスだ。

自分で読むのではなく、僧が読むというのが、大きな特徴。そもそも、一般人は、現代のような、やさしい解説本がある訳ではないので、難しいお経を読むことは出来なかったのだろう。

言葉がまだ大きな力を持っていた時代、教えがまだ大きな意味を持っていた時代においては、僧に経を読んでもらうことは、有り難いことであったのだろう。

言葉や教えの価値が薄れた現代人にとっては、看経の有り難さは、わからなくなってしまった。

看経:経を読むことはそんなに簡単なことではない

現代においては、法華経が文庫本で読めるくらいに、経は身近なものになっている。

しかし、この看経の巻を読むと、道元は、経を読むということについては、そんな簡単なものではないと語っている。

仏経にあふことたやすきにあらず。

仏祖にあらざれば、経巻を見聞・読誦・解義せず。

仏祖にならなければ、経の意味を理解するどころか、それを読むことさえ出来ないという。道元の、厳しい一面をかいま見る気がする。

2012年10月11日木曜日

古鏡:瓦を研いで鏡を作る

南學と馬祖の、鏡についてのエピソード。

ひたすら座禅をする馬祖に対して、南學が尋ねる。

南學「何のために座禅をしているのか?」馬祖「仏になるためです」

南學は、瓦を持ちだして、それを研ぎ始めた。

今度は、馬祖「何のために瓦を研いでいるのですか?」南學「鏡を作るためだ」

すると、馬祖「瓦を磨いて鏡が出来るのでしょうか?」

南學がすかさず答える「座禅をするだけで、お前は、仏になれるのか?」

最後に、道元は次のように締めくくる。

凡人は、瓦を研いでも鏡は作れない、座禅をしても仏にはなれない。

座禅をして仏になれる人は、瓦を研ぐことで、鏡を作ることができる。

古鏡:国家みな鏡を伝授する

鏡に関して、道元は、次の2つのエピソードを紹介している。

伝説上で、中国の最初の皇帝とされる、黄帝の時代には、十二枚の鏡があったという。

また、日本の神話では、三枚の鏡が登場し、そのうちの1枚は、いわゆる三種の神器の1つになっている。

道元は、こうしたエピソードを紹介して、

国家みな鏡を伝授することあきらかなり

と書いている。

鏡の重要性を語っているのだが、仏教の世界ではなく、”国家”の話でそれを裏付けるというのは、道元にしては、珍しい。

古鏡:鏡にまつわる不思議な巻

この巻は、鏡にまつわる不思議なエピソードがたくさん紹介される。

その極めつけは、冒頭で紹介される、第十八伽耶舎多尊者の話。この高僧は、母親が鏡にまつわる夢を見て、その7日後に生まれた。そして生まれたと同時に、鏡が自然と現れ、常に側にその鏡がいたという。

この鏡には、この世の全ての事が映されていたという。

道元というと、”鬼神を語らず”というイメージが強いだけに、このエピソードには驚かされた。

2012年10月7日日曜日

心不可得(後):身心の問題を参究すべし

2巻にわたり、心不可得というテーマについて論じた後で、道元は次の言葉で、この巻を終えている。

およそ仏道に身心を談ずること、仏仏祖祖の会におほし。ともにこれを参学せんことは、凡夫賢聖の念慮知覚にあらず。心不可得を参究すべし。

体と心の問題は、釈迦の時代から、常に仏教の世界において、最重要のテーマだった。

道元は、私たちに、ひたすらその問題と取り組むように訴える。

心不可得(後):道元の合理的な精神

この巻は、前半は、直前の心不可得(前)と全く同じ。心について尋ねる餅売りの老婆について書いている。

この老婆について、一般的には、かなりの仏知識を持った人物と考えられるが、道元は、そんなことは、このエピソードからではわからないという。

この老婆は、確かに高僧も答えに窮するような、するどい質問を投げかけることはできるが、しかし、その答えを自ら、高僧に返すことはしなかった。

よって、この老婆の本当にレベルは、わからないという。

こんなところに、通説の内容にも、納得しなければ鵜呑みにしない、道元の合理的な精神を見て取ることができる。

心不可得(前):書物だけの思想を批判

この巻で、道元は、面白いエピドードを紹介する。

『金剛般若経』を極め、その解説書を著した高僧が、旅の最中に、餅売りの老婆に、点心(おやつ)として餅を所望した。

その老婆は、相手が『金剛般若経』を極めた高僧と知り、次のように問いかける。

「そのお経に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得とあるが、いまあなたが点じようとしている心は、どの心か?」

その高僧は、この老婆の問いに、答えることができなかった。

道元は、このエピソードを通じて、仏の教えは、決して書物を通しては、習得できないということを示している。

心不可得(前):ヨーロッパ近代哲学にも通じるテーマ

この巻の題名、心不可得とは、『金剛般若経』の次の言葉から取られている。

過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。

道元は、この教えを、”仏祖の参究”(参禅することで真理を究める)であるという。

心不可得。これは、デカルト以来の近代哲学が追い求めたテーマとも相通じるものを感じる。

2012年9月27日木曜日

法華転法華:教えを使うか使われるのか

心に迷いがある時は、法華が転じている。主語は、法華である。主体は自分にはない。

悟りを得ると、今度は状況が、まるで逆になる。法華が転じるのではなく、法華を転じる。法華は、主語ではなくなって、目的語になる。法華を転じる主体は、自分の側になる。

法華とは、もともとの意味で言えば、正しい教えである白い蓮の花、ということだろうか。

正しい教えに、踊らされるか、その教えを、自分のものとして、使いこなせるか。道元は、そうしたことを、法華転法華、という不思議な言葉で表現している。

法華転法華:道元の文字世界

実に面白い巻の名前だ。

法華が法華を転じる。

これは、この巻の中での言葉、

心迷は、すなわち法華転なり。心悟転法華といふは、法華を転ずるというなり。

を続けて表した物だが、道元は、それによって、原典にはない、新たな文字世界を作り出している。

何よりも、この巻を読むと、道元が、いかに『法華経』を読み込んでいたかがわかる。道元と『法華経』は、すぐに結びつかないが、道元の中で、『法華経』は、特別な意味を持っていたことが、この巻からよくわかる。

2012年8月26日日曜日

嗣書:時間の流れにこだわらない仏祖の継承

道元は、自らの師にあたる、如浄大和尚から、仏祖を継承するのは、必ずしも、時間の流れによるのではない、と教えられる。

時代が前の人から、後の人に継承(嗣法)されるのではない。単に、仏祖から仏祖に継承される、と考えろと教えられる。

釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学し、迦葉仏は釈迦仏に嗣法せりと学するなり。

道元が、他の巻において、時に時間の流れに捉われないように、と説いているのは、この師の言葉が、その原点にあるのかもしれない。

嗣書:仏祖継承の証明書

嗣書とは、仏祖継承の証明書であり、それがないと、仏祖を継承したことを、それこそ証明することはできない。

道元は、宋を訪れた際に、あちこちで、いろいろな種類の嗣書を見たことを、この巻で述べている。

道元が継承した曹洞宗の嗣書については、達磨大師から数えて六代目の慧能大和尚が、自らの血を使って書いたのが、その始まりであるという。

仏祖:自らの正統性の証明

仏祖という短い巻の中で、道元は、57人の歴代の仏祖の名前を、紹介し、最後に、自分は、宋を訪れて、その後を継ぐ物として、仏祖を引き継いだのだ、としている。

何か、道元の正統性を疑う事態が発生したのだろうか?あるいは、道元が、今後のために、それを書き残す必要性を感じたのだろうか?

いずれにしろ、自らの正統性を、この巻で表そうとしている。

山水経:山水画の本質

山水画は、自然を描いたのではなく、心を描いたものと、よく言われる。

道元は、この巻の中で、山と水について、次のように述べている。

山は超古超今より大聖の所居なり。

あるいはむかしよりの賢人聖人、まさに水にすむもあり。

聖人といわれる人々は、山の中に住んだり、あるいは、水の近くで暮らすことで、大いなる悟りを得る、という。

道元は、禅を学びに宋を訪れ、そこで中国の山水に触れて、その本質を理解したのだ。

山水経:自然の見方に再考を促す

道元は、現代の私たちに対して、自然に対する見方の反省を迫るように、高僧の言葉を、この巻で紹介している。

青山常運歩、石女夜生児(太陽山 道楷和尚)

東山水上行(雲門匡真大師)

道元は、この他にも、”山は動かない”、”水は流れる”といった、常識について、かならずしもそうではない、ということを、繰り返し述べている。

山水経:自然に仏の道が現れる

而今の山水は、古仏の道現成なり。

現在の山水は、古い仏の道が、現実化したものである。

この不思議な言葉で、この山水経は始まる。

仏の説く道は、単に、人間世界のことだけではなく、自然世界のことまで含んでいる、というこの道元の言葉は、仏教=宗教あるいは道徳、と考える人々の常識に対して、大きな反省を迫っている。

2012年8月18日土曜日

伝衣:道元の原体験

道元が、ここまで袈裟にこだわる、その原因は何だったのだろうか?

道元は、宋に渡って修行している最中に、目撃した1つの事象を語っている。

隣の席にいた一人の僧が、毎朝、起床する時に、まず、袈裟を高い場所に置いて、合掌をして、経を唱えていた。

それを見た道元は、未だかつてない思いを感じ、思わず涙を流したという。

その光景こそが、道元が、そこまで袈裟にこだわる、原体験、というべきものだった。

伝衣:やつれたる衣服とは何か

道元は、当時の堕落した仏教界を、最も強く批判した仏教家の一人だった。

この伝衣の巻でも、次のように語っている。

やつれたる衣服ならんことは、錦繍綾羅・金剛珍珠等の衣服の、不浄よりきたれるを、やつれたるというなり。

衣服がやつれているとは、衣服が実際に汚れているということではなく、立身出世したいとか、金持ちになりたいという不純な気持ちで、絢爛豪華な衣服を着ていることこそ、やつれている、というのだ。

道元は、”形”に徹底的にこだわった人物だが、それはあくまでも、心あっての形であって、形だけでは、何の意味もないことを、生涯訴え続けていた。

伝衣:袈裟への道元のこだわり

この伝衣の巻は、直前の袈裟功徳とほぼ同じ内容。出だしの文章もそっくりだ。

わざわざ、同じ内容で2つの文章を残そうと思ったのか、あるいは、どちらかは、下書き的な意味合いだったのだろうか?

袈裟はこれ仏身なり、仏心なり。

いずれにしても、上の言葉に、道元の、袈裟に対する、ただならぬ思入れを感じることができる。

2012年8月16日木曜日

袈裟功徳:在家の人も袈裟を持て

道元は、在家の人も、袈裟を持ち、時にそれを着るとよい、と言っている。

中国では、梁の武帝、随の煬帝といった偉大な皇帝は、袈裟を持っていた。日本では、聖徳太子、聖武天皇が袈裟を持っていたという。

また、袈裟に対して唱える文句まで、この巻で紹介している。

大哉解脱服
無相福田衣
被奉如来教
広度諸衆生

袈裟功徳:袈裟の管理の仕方

洗浄の巻において、トイレの所作について、事細かに解説した道元は、この巻では、袈裟の洗い方について、またまた、細かに記している。

それによると、ゴシゴシと洗うのではなく、付け洗いがよいとのこと。最後は、香を冷水にいれて、袈裟をつけて、香のにおいをつける。

よく乾かしたら、大切なたたんでから、3、6、あるいは9回礼拝してから、しまうように指定している。

道元にとっては、袈裟は、お釈迦様、あるいはその教え、そのものだった。

袈裟功徳:お釈迦様の衣が中国にある

道元によれば、お釈迦様がその教えとともに弟子に伝えた、自らの衣は、その後、中国に伝えられ、曹渓山宝林寺に残されているという。今でも残っているのだろうか?

この衣を持っている、ということが、仏祖の正統なる後継者、ということを意味するのだろう。

キリスト教にも、トリノの聖骸布、というものがある。自らが慕う人間が身につけていたものを尊ぶ習慣は、人間の根本的な思いなのだ。

袈裟功徳:形にこだわる道元

坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。という言葉にある通り、仏教僧と袈裟は、切っても切れない関係にある。

この袈裟功徳の巻で、道元は、この袈裟に対して、徹底したこだわりを見せる。道元によれば、仏祖は、その教えを、一番弟子に対して、袈裟といっしょに伝えた。仏の教えは、袈裟といっしょに伝えられたのであって、それと切り離して考えることができない。

禅とは、座禅を組むことで、仏祖と同じ体験をすることで、同じ悟りを得ようと言う信仰であり、”形から入る”のがその思想の根本にある。

袈裟、という形あるものにこだわる道元の思いは、まさに禅の本質的な思いなのだ。

2012年6月23日土曜日

有時:思想の時代性

道元は、人間の考えとは、時によって変わるものだと、考えていたようだ。

「疑著せざれども、しれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎事を擬著すること一定せざるがゆえに、擬著する前程、かならずしもいまの擬著に符合することなし。ただ擬著しばらく時なるのみなり。」

物事を疑っている訳ではないが、だからといって知っている訳ではない。あらゆることについての疑っているが、考えは一定ではない。そもそも、疑っている前提や疑い方が、時代とともに変わっている。疑うということ自体が、時というものなのだ。

最後は、再び、存在と時間の関係に戻っている。

有時:道元の時間論

この巻では、道元の時間論が語られる。ここでも、道元は、時間は過去から現在そして未来に流れるものである、という常識を否定している。

「有時に経暦の功徳あり。いわゆる、今日より明日に経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日に経歴す、今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。」

また、こんなことも書いている。

「山も時なり、海も時なり。時も壊すれば山海も壊す、時もし不壊ならば山海もまた不壊なり。」

時間がなければ、存在自体がないと言っている。

諸悪莫作:言うは易く行うは難し

道元は、白居易と道林禅師のやりとりを紹介している。

白居易「仏教の大意とは何でしょうか?」

道林禅師「悪いことを行わず、正しいことを行うことだ。」

白居易「そんな簡単なことであれば、3才の童子でも知っていることではないですか。」

道林禅師「3才の童子でも、知ることができるほど単純なことだが、80才の老人でも、それを実践することは、難しい。」

道元に取っては、仏教等は、知識ではなく、あくまでも実践であったのだ。

諸悪莫作:因果という言葉について

道元は、衆善奉行という言葉を解説するにあたり、因果について、次のように書いている。

因はさき、果はのちなるにあらざれども、因円満し、果円満す。因にまたれて果感ずるといへども、前後にあらず。

因果は、因が先に会って、果が後にある、というものではない。因が満たされて、果が満たされる。これは、どのように解釈したらいいのか?

ヒュームが因果論を否定した論理とは少し違っているが、私たちが、当たり前と考えると、原因と結果、という考え方に対して、大いなる反省を迫っていることには、違いない。

諸悪莫作:衆善ただ奉行なるのみ

衆善奉行という言葉を解説する道元。

衆善、有・無・色・空等にあらず、ただ奉行なるのみ。

善とは、それがどんなものであるか、ということを解釈、議論しても意味がない。ただそれを行うこと、実践することに意味がある、と道元は言う。

では、そのなすべき善とは何だろうか?

そう問えば、おそらく道元から、すぐに”喝”という声が返ってくるに違いない。

諸悪莫作:自己は有にあらず無にあらず、莫作なり

諸悪莫作の巻は、どの仏教の宗派にも共通する教え、”諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教”という言葉を解説している。

中でも、諸悪莫作という言葉について、長々と解説しているが、その内容が哲学的だ。

善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず。諸悪は因縁生にあらず、ただ莫作なるのみなり。諸悪は因縁滅にあらず、ただ莫作なるのみなり。

その流れの中で、道元は、次の言葉を記している。

自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。

これは、解釈によっては、ニーチェにもつながる、西洋哲学的な内容で、現代の私たちが道元を、哲学者と考えたくなるのもわかる。しかし、道元の真意はわからない。ただ単に、文章の流れで、そう書いているようにも思える。

2012年5月31日木曜日

谿声山色:当時の仏教界を批判する

道元は、当時の日本の仏教界の状況を、厳しく批判している。

本来、ひたすら仏法をもとめて修行すべきなのに、権力者の庇護を受けることで満足し、本来の修行がおろそかになっている。

道元は、日本はインドや中国から遠く離れているので、愚かな人間が多い、ということも言っている。中国に留学した道元の、意外な本音なのかもしれない。

また、悟りを開いた人も、もともとは自分たちと同じ人間だった。誰でも、ひたすら仏法を敬い、修行する人には、悟りを得る可能性があるとも言っている。

谿声山色:自然の中で悟りを得る

道元は、この巻で、大自然の中で悟りを開いた高僧を紹介している。

勿論、大自然の中に行けば、誰でも悟れるという訳ではない。ひたすら、修行を重ねているからこそ、そうした自然の中で、突然悟りを得ることができる。

さらに、道元は、その悟りの瞬間について、”居士の悟道するか、山水の悟道するか。”と不思議なことも言っている。人間が悟っているのか、自然の方が悟っているのか。

この言葉には、人間と自然が一体になり、ともに悟りを開くという、マクロコスモスとミクロコスモス、あるいは、山水画にも通じる思想が現れている。

道元がこの文章を書いたときは、彼は宇治の宝林寺にいた。この後、北陸の永平寺を建立する。この巻のように、そこで多くの弟子が悟りを得ることを望んだのだろう。

2012年5月24日木曜日

礼拝得随:女性を差別する思想に喝!

道元は、この巻で、世の中の偏見や形式主義について徹底して批判しているが、その中で、女性に対する偏見について、特に大きく取り上げている。

男性社会では、女性を性欲の対象としてしかみていないが、それは大きな間違いだ。男性も、女性からみれば、同じ性欲の対象ではないか。女性も男性も、不浄のもとであることに変わりはない、という。

妻を持っているかいないは、仏の教えを得ることとは全く関係がないとも言っている。また、女人禁制の場所についても、ばかばかしいことだと一笑にふしている。

礼拝得随:徹底した合理主義者の道元

道元は、仏の知恵を得るためには、一切の虚栄や形式主義を配する、徹底した合理主義者であった。

この巻で、道元は、相手が9才でも、優れた知恵を持っていれば、教えを請うし、100才であっても、知恵がないなら、ためらわず教える、ということを言っている。

また、自分自身についても、地位や年齢に関わらず、仏の知恵、仏の教え神髄を得る(得随)ためであれば、必要な修行を行うべきだとしている。

その徹底した思想には、ただただ脱帽するばかりだ。

2012年5月21日月曜日

洗浄:道元の素晴らしい描写力

『正法眼蔵』の他の巻では、道元は、いわゆる禅の公案について、一見、意味が分からないような、高尚な文章を書いている。

しかし、この洗浄の巻では一点。実に現実的な内容の文章を書いている。

トイレに行く時、どのようにタオルを持っていけばいいか、途中で人にあった時にどうするか、トイレに入って、どのように用を足すか、終わった後に、どのように洗浄するか・・・

そうしたことについて、驚くべき細かさで記述している。その描写力には、ただただ敬服。

しかし、道元は、この文章を書いているとき、実際に、自分もその動作をしながら、確認しながら書いたのだろうか?と考えると、道元が身近に感じられる。

洗浄:驚くべき内容

洗浄。これは、大小便のあとに、手を洗うことを意味する。この巻では、高等な教えが説かれている訳ではない。悟りについて、語られている訳ではない。なんと、トイレの行き方、便後の洗浄の仕方について、事細かに記されている。

これは、一般の人向けに書かれたものではない。明らかに、寺で修行している僧に対して書かれている。道元は、この『正法眼蔵』自体を、そうした僧侶に対して、語り、記したのだ。

道元に取っては、便後の洗浄も、重要な修行の1つであった。他にも、爪を切ること、髪を切ることも、修行の1つであるとしている。

道元という人物について、私たちは、哲学者や思想家をイメージしがちだが、それは大きな間違いだ。

2012年5月18日金曜日

即心是仏:霊知という存在を否定

道元は、実に現実的な思想を持っていた。

臨済宗の祖、臨済よりも道元が評価する、大証国師の言葉を引用しながら、インドにあるといわれる霊知論、つまり、死後も存在するという霊的な知の存在を、きっぱりと否定している。

禅という思想は、現実的な傾向が強い、中国で生まれた思想なのだ、ということが窺える。

即心是仏:安易な解釈を厳しく批判

即心是仏というと、心そのものが仏なのだ、という意味に思えてしまう。

しかし、道元によれば、それは大きな間違いで、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏であるとしている。

まだ修行中の僧侶は勿論、一般の人の心が、仏なのではない。そうした安易な解釈を道元は厳しく諫めている。

2012年5月14日月曜日

一課明珠:美しい世界のイメージ

この世界の全て(尽十方世界)は、明るい珠のようなものだ、という、この一課明珠ということばは、この世界を美しいものとして捉えている。

禅というと、渋いイメージがあるが、師備というお坊さんは、世界を明るいイメージで考えていた。

珠ということばからは、数珠をイメージする。数珠は、108つの煩悩を表すと言われているが、数珠の1つ1つが、美しい世界なのだ、と考えると、数珠に対する見方が大きく変わってくる。

一課明珠:玄沙師備のことばを巡って

一課明珠とは、宋の時代、福州の玄沙山に住んでいた師備という偉いお坊さんのことばをめぐって、展開される。

この師備という人は、もともとは、漁師を営んでいたが、30才頃に出家し、雪峰山の真覚大師に弟子入りした、という珍しい経歴を持っていた。

この師備が、悟りを得た後に、”この世は、美しい珠のようなものだ”と言った。弟子の一人が、”そのことばを、どのように理解したらいいでしょうか?”と聞くと、師備は、”それを理解してどうしようというのか”と答えたという。

道元は、そのエピソードを詳しく解説しながら、”この世が、明珠であるかどうかは、どうでもいいことだ”と語っている。

道元は、ことばの定義に捉われるな、ということを言いたかったのかもしれない。

2012年5月6日日曜日

現状公案:多くの例え話を使って

道元は、この巻の中で、自分の考えをわかりやすく伝えるために、いろいろな例え話を使っている。

舟に乗っていると、周りの景色が動いているように見えるが、実は自分が動いているのだ、という相対性理論のような例え話が出てきて、驚く。

薪(生)は灰(死)となるが、それを薪が先で、灰は後と考えるのは間違っている、という。薪は薪、灰は灰、と別々に考えるべきだと。これは、ヒュームの考えに近い。

船で海に出てしばらくすると、山が見えなくなるが、山がなくなる訳ではない。

などなど。

1つ1つの例え話は、実にわかりやすいが、その裏に隠れているもは、とてつもなく深い。

2012年5月4日金曜日

現成公案:わかりやすい文章

正法眼蔵は、むずかしい、わかりにくい、と言われるが、この巻に限っては、実にわかりやすい。

「諸仏のまさしく諸仏となるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。」

「仏道をならうといふは、自己をならう也。自己をならうといふは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」

「人のさとりをうる、水に月のやどるごとし。月ぬれず、水やぶれず。」

いずれも、現代語に訳さなくても、その意味は大体わかる。

摩訶般若波羅蜜:道元の思想の本質

摩訶般若波羅蜜とは、大いなる知恵の成就という意味。

道元は、この巻のほとんどを、『般若心経』や『大般若経』などからの経文で構成している。それらの経分は、とにかく、仏が説いた内容を、ただよく学び、声を出して何度も唱えること、それを敬うこと、といった内容を語っている。

最後に道元は、仏の存在自体。仏がこの世に存在したということが、まさに、大いなる知恵の成就であったと、記している。

おそらく、それらのことは、道元が伝えたいこと、あるいは信じていること、実行していることの、核にある、本質的な考えであったに違いない。