2013年12月30日月曜日

菩提薩埵四摂法:神や政治のことを論じる

この巻では、他の巻ではあまり論じられる機会のないテーマが論じられる。

かの琴詩酒は、人をともとし、天をともとし、神をともとす。

神という言葉が登場する。道元も、普通の日本人のように、神と仏が、その心の中では共存していたのだろうか。

また、諸子百家の管子の言葉、明主は、どんな人でも差別せずに受け入れる、という趣旨の言葉を紹介している。

菩提薩埵四摂法:他の巻とは少し違っている

この巻は、他の巻とは少し違っている。

普通は、高僧の言葉などの解釈で始まるケースが多いが、この巻では、菩提となるための修行を行う人が、行うべき4つの行いを、順番に紹介している。

その4つとは、布施、愛語、利行、同事。

布施は、文字通りお布施を施すことだが、そこには、自分に対することも含むべき、という部分が興味深い、

愛語は、相手に対して愛を持って言葉を発すれば、その言葉は、愛のある言葉になる、ということ。

利行とは、他人の対して、利となることをしろ、ということ。

最後の同事は、あらゆるものを、拒まず、等しく取り扱う、ということ。

いずれも、そも説明は、概ねわかりやすい。他の巻のような、難解な議論は一切ない。

古仏心:古仏心とは壁や瓦の破片である

古仏とは、釈迦牟尼以降、仏となった代々の高僧のことである。

では、古仏心とは何か。

それは、壁や瓦の破片である、とある高僧は言った。

道元は、それが、どういう意味を持っているかを、ひたすら考えるべきだと言う。

空華:仏の世界は虚空の華のようだ

月の次は、華。

一華開五葉、結果自然成。

この巻は、中国に禅を伝えた達磨大師の言葉から始まる。

仏教の世界では、仏の世界を、虚空の華として例えるようだ。

諸仏諸祖、ひとり空華・地華の開落をしり、世界華等の開落をしれり。

悟りを得た者だけが、そうしたことを知るのだという。

都機:この世の全ては月の中にある

仏真法身、猶若虚空。応物現形、如水中月。

仏の本質は、形がなく虚空であり、それが姿を現す場合は、まるで水の中に移る月のようだ。

金剛明経における、釈迦牟尼の言葉を冒頭で紹介し、この巻では、その言葉を巡った道元の考えが展開される。

この巻の名前、都機、は、つき、つまり月を表すのだろう。道元のシャレだろうか。

生死去来ともに月にあり、尽十方界は月中の上下左右なるべし。

この世の全ては、月の中で起こっていることだという。


全機:生は全機現なり

生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらず。しかあれども、生は全機現なり。

生というものは、来るとか去るとか、何か一つに特定されるものではない。あらゆることがそこでは起こりうる、あるいは起こる。

正法眼蔵の巻の内容は、ほとんどが、道元が自分の寺で弟子に対して行った法話だが、この巻は、道元が、寺の外で、一般の人向けに行った法話である。

そうした人々に、道元は、生とは何かという、根本的なテーマを語った。

全機:人生とは舟に乗るようなもの

生といえば、たとえばひとのふねにのるときのごとし。

道元は、人の一生を、船に乗ることに例えている。

人は、船の操ることはできるが、風の状況、海の状況によって、自分の思う方向には進むことができない。時には、風が、自分を運んでくれる。

道元と船といえば、彼が南宋を訪れた船旅が連想される。道元は、その船旅を思い出しながら、この例え話を語ったのだろうか。

画餅:すべてはイメージから始まる

画餅不充飢。という高僧の言葉から、この巻が始まる。

もし画は実にあらずといわば、万法みな実にあらず。

道元は、画を描くという事を、頭の中で何かをイメージして形に表す、という解釈をしている。その上で、すべての事は、そうした描かれたイメージが、現実化する、と言っているように思える。

人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり。

人間の世界も、仏の世界も、そうした画から生じるという。

道得:仏も一目置く座禅

坐は一生二生なり、一時二時にあらず。

座禅とは、一生をかけて行うものであって、ある一時、座禅を行ったから、どうとなるものでもない。

坐して不動なる十年五載あれば、諸仏もなんぢをないがしろにせんことあるべからず。

ひたすら座禅を行い、それが15年も続けば、仏でさえ、あなたをないがしろにはしない。

座禅というものに対する、道元の考え方が、よく現れている言葉だ。

道得:見事に言い表すこと

道得という聞きなれない言葉が、この巻で登場する。

道とは、中国語で、言うという意味である。それを得る、ということは、言うことを得る。言うことについて、会得する。

そこから、仏祖として、長く修行したとしたら、それに相応しい、見事な、その人なりの、ものの言い方を、会得する、という意味になる。

その人の言うことを聞けば、その人のレベルがわかってしまう、ということだろうか。

うかつに、ものが言えなくなってしまう。

2013年8月24日土曜日

夢中説夢:仏は夢の中で悟りを得る

証中見証なるがゆえに、夢中説夢なり。

道元によれば、仏が悟りを得るのは、この世が現れる前の、夢を見ている時であるという。

徧界の弥露は夢なり。

夢の中で仏が悟りをえる。その悟りによって、現実の世界が出現する。

これは、まるで、世界創造神話のようだが、道元は、これは決して例えではない、と強く述べている。

身心学道:一見わかりやすそうだが・・・

仏道を学習するに、しばらくふたつあり。いわゆる心をもて学し、身をもて学するなり。

この道元の言葉は、一見、わかりやすそうに見える。しかし、

しばらく山河大地・日月星辰これ心なり。(中略)尽十方界是箇真実人体なり。

という別の言葉をみると、そもそも、心や身(体)という言葉の意味が、実に深い意味を持っていることがわかり、最初の言葉も、そんなに簡単でないことがわかる。

光明:この世界は言葉である

道元はこの巻で、招賢大師の言葉を紹介する。

全ての世界は、沙門の眼、全身、そして言葉であり、その光明である。

厳しい修行をし、悟りを得た僧侶にとっては、この世界が、完全に自分と一体化しているように感じられる、ということなのだろうか。

栢樹子:道元の言葉の変奏曲

趙州と、ある僧との、栢樹子をめぐる問答について、道元は、どちらの言っていることも、決して間違ってはいないという。

続いて、栢樹子が成仏する、という言葉をめぐり、道元は、独特の言い回しを使って、その言葉を、いろいろに解釈していく。

その文章は、まるで、元の言葉を、次々に別の調に変えていく、変奏曲のようだ。

ここでも、道元独特の、言語空間が、生み出されている。

栢樹子:趙州への尊敬の念

道元は、この巻の冒頭で、趙州という9世紀の高僧についてのエピソードを紹介している。

趙州は、60才になって、発心した、という珍しい経歴を持っている。その後は、ひたすら座禅を行っていた。

道元は、そうした趙州に対して、深い尊敬の念をもっていたようだ。

2013年7月6日土曜日

阿羅漢:仏法を学ぶ究極の姿

道元は、この巻において、阿羅漢という存在を、仏法を学ぶ究極の姿として、いろいろな経典から、釈迦などが阿羅漢について語った言葉を紹介している。

そこで語られているのは、俗世間や自己に捉われず、心を自由に保ち、ひたすら仏法を学ぶ、ひたむきな姿である。

それはまた、道元が、理想とする姿であったのだろう。

観音:観自在菩薩の本質

日本人に馴染みのある、観音様。観世音菩薩、観自在菩薩ともいう。

十二面観音、千手観音、など様々な観音様が存在し、数ある経典の中でもその表現は様々だが、道元は、この巻の中で、雲厳と道吾という二人の高僧の会話こそ、その観音の本質をもっともよく表しているという。

そこでは、十二とか、千とか、数字にこだわるのではなく、通身是手眼、であると語っている。

からだ中が手眼である、ということだろうか。

2013年6月13日木曜日

授記:自分の知らない自分

自己の知する法、かならずしも自己の有するところにあらず。自己の有、かならずしも自己の知るところにあらず。

自分が知っているからと言って、それを自分が持っているというわけではない。その逆に、自分という存在の中には、自分でも気づかないものが、無数に隠されている。

自分のという存在の限界、逆のその可能性を、この道元の言葉は、よく言い表している。

授記:いつ仏祖から悟りの時期を知らされるのか

授記とは、仏教の世界では、仏祖が弟子に対して、その成仏について予言することいみする。

その授記という言葉について、道元は、

授記は仏祖単伝の王道なり

として、その意味を継承しつつ、その時期については、どんな時にも起こりうるとしている。

海印三昧:道元の存在と時間

従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり。

存在は、私ではなく法であって、それは絶対的な存在である。存在が滅して、そのすぐ後に、再び存在が起こっても、それは原因と結果ではない。ただ単に、法が起こった、ということである。

この言葉には、道元の、存在と時間、ともいうべき考え方が、よく現れている。

海印三昧:海印三昧とは何か

海印三昧とは、まったく聞きなれない言葉だ。

文字としての意味は、仏が悟りを得ている状態を、海に例えていることのようだ。

では、具体的には、どんな真理なのか?

起はただ法の起なり、滅はただ法の滅なり。我起とは言わず、我滅とは言わず。

道元は、ある経典の言葉を引用して、そのように表現している。

個人が成仏するとか、悟りを開くという考え方を否定して、仏法が、ある人物を通して、現成する、といった意味だろうか。

2013年5月5日日曜日

行持:名声や富に囚われないことこそ肝要

道元は、戒律を守らないことよりも、名声や富に捉われてしまうことの方を、強く戒めている。

戒律を破ることは、一時的な事だが、名声や富に捉われると、一生そこから逃れられない、という人間の性を、よくわかっていた。

道元といえども、自らの教えを広めるための活動は、名声や富の誘惑と紙一重だったに違いない。

道元は、自らも、つねにこのことを心に留めていたのだろう。

行持:達磨と慧可の物語

この巻では、30人以上の仏祖の行持が紹介されている。その中でも、特に有名なものが、中国に禅を伝えた達磨と、それを継いだ、慧可の物語。

山にこもり、ひたすら修行する達磨を、慧可が訪れるが、達磨は会おうとしない。

8年も達磨の住まいの外で、ひたすら待ち続け、ついに、左腕を切り落とし、その意を伝えた。

達磨も、ようやく、慧可の真意を理解し、その教えを伝えることになった。

雪舟がその場面を描いたことでも、よく知られているエピソードだ。

行持:年齢や身分や知識とは関係のない修行

修行を行うにあたり、年齢、そのひとの出身や身分、教育のありなしは、何の関係もない。

仏の道を一度目指したならば、高い身分のものだか、修行はしないとか、年をとったから、修行をやめるあるいは控えめにする、ということは、道元にとってはあり得ないことだった。

自分の置かれた状況や、周りの環境に囚われず、ただただ、ひたすら修行をすること。それこそが、道元にとっては、仏の道であった。

行持:仏祖の修行がこの世を支える

行持とは、仏祖が代々に渡り、修行を続けていることをいう。

道元によれば、釈迦以来の、代々の仏祖の厳しい修行は、単に、仏教の存続を支えているだけではなく、そうした行持があることで、この世が存在する、という。

仏教が伝えられるということは、仏典などの書物や思考によって伝えられるのではなく、座禅を中心とした、修行という行いが、ずっと続けられる、といことにある。

このことは、仏教あるいは宗教のみならず、人間のすべての営みについてもいえることだろう。

この巻には、道元の独自の理論や思想が語られているわけではない。ただ単に、過去の仏祖達の修行の様子が語られているだけだが、道元の基本的な考え方がよく表れている。

2013年3月6日水曜日

恁麼:智とは何か

道元は、この巻で、智というものについて、次のように語っている。

いわゆる智は、人に学せず、みずからおこすにあらず。智よく智につたはれ、智すなわち智をたづぬるなり。

智とは、学んだから得ることが出来る、というものではなく、しかも、自らそれを作り出すことは出来ない。智の方が、むしろ、智をたどっていくことで、伝わっていくのだ。

人間の自らの智に対する思い上がりに、冷水を浴びせかけるような、厳しい言葉だ。

恁麼:道元の世界観

恁麼とは、このような、とか、このとおり、とかいう意味の俗語だという。

この巻では、道元が、この世界と人間の関係を、どのように見ていたか、を表す言葉が出てくる。

われもかの尽十方界の中にある調度なり。・・・(略)・・・。身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされてしばらくもとどめがだし。

自分という存在は、この世界の中にあるものの一つにすぎない。いのちには限りがあり、時間の流れを止めることが出来ず、ただ老いていくばかりである、としている。

この言葉を見ると、道元の世界観は、今日の一般的な世界観とほとんど変わりがないことがわかる。

道元は、そのように、目の前にある世界を、そのまま受け入れた上で、仏の道を極めようとしたのだ。

2013年1月29日火曜日

仏向上事:悟りとは何か

道元にとって、悟りとは、どんなものだったのか。その一つの答えが、この巻で、語られている。

修証は無にあらず、修証は有にあらず、不知なり、不得なり。

悟りとは、無いというわけではないが、有るというわけでもない。有るとか無いとかを、知ることができないものであり、得るという概念で、語ることができないものである。

悟りとは、悟った者でないと、わからないものであり、それを、言葉で他人に伝えることは、できないということなのであろう。

仏向上事:仏向上事とは何か

この巻の名前にもなっている、仏向上事、とは、あまり、聞きなれない言葉だ。

道元は、この言葉のいみを、次のように説明している。

いわゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。

仏になったとしても、それで終わりではなく、さらに修行をつづけ、さらなる目標として、仏を目指すということだという。

道元は、ことの結果よりも、そこへの過程を、より重視していた。あるいは、この世を生きるということを、静的なものでなく、動的なものと、考えていた。

2013年1月20日日曜日

坐禅箴:道元にとって坐禅とは何か

道元の坐禅にたいする考え方は、この巻の、次の言葉に現れている。

おおよそ西天東地に仏法つたわるるといふは、かならず坐仏のつたわるるなり。

ここをもて、仏祖かならず坐禅を単伝すると一定すべし。

そして、現代の僧たちが、宋も含めて、坐禅を重んじず、坐禅をすることを知らない、と嘆いている。

坐禅箴:道元お好みのエピソード

道元は、この巻で、かつて紹介した、南嶽と馬祖のエピソードをふたたび紹介している。

南嶽が、馬祖に、禅をしてなにを得ようとしているのか、と尋ねる。

馬祖は、作仏をしようとしている、と答える。作仏は、仏になろうとしている、というほどの意味だろう。

すると、南嶽は、瓦を磨ぎ始める。馬祖が、逆に、何をしようとしているかを尋ねる。

南嶽は、瓦を磨いて、鏡を作ろうとしているのだ、と答える。

馬祖は、瓦を磨いて鏡を作ることはできないのでは、と答えると、南嶽も、坐禅をすることで、仏にはなれない、とやりかえす。

道元は、よっぽど、この話が好きであったにつがいない。

しかし、南嶽は、決して、坐禅自体を、低く見ていたのではない、というのが、このエピソードのミソでもある。道元は、それを、実に長々と、この巻で解説している。

2013年1月3日木曜日

大悟:宋の僧侶の悟り信仰を批判

道元は、当時の宋の僧侶たちに一般的だった、悟りへの妄信的な信仰を批判している。

近日大宋国、禿子いはく、悟道是本期、かくのごとくいひていたずらに待悟す。(中略)ただ真善知識の参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。

皆、悟りの訪れることを、ただただ待っているだけだという。道元にとっては、悟りとは向こうからやってくるものではなく、日々の厳しい行いの延長にあるものだった。

大悟:道元の悟りのイメージ

仏とは、悟りを得た存在であるが、道元は、必ずしも仏=悟りではない、ということを、次の言葉で表現している。

仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。

また、一度悟ったからといって、二度と迷わない、というわけでもない。

大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。