2012年5月31日木曜日

谿声山色:当時の仏教界を批判する

道元は、当時の日本の仏教界の状況を、厳しく批判している。

本来、ひたすら仏法をもとめて修行すべきなのに、権力者の庇護を受けることで満足し、本来の修行がおろそかになっている。

道元は、日本はインドや中国から遠く離れているので、愚かな人間が多い、ということも言っている。中国に留学した道元の、意外な本音なのかもしれない。

また、悟りを開いた人も、もともとは自分たちと同じ人間だった。誰でも、ひたすら仏法を敬い、修行する人には、悟りを得る可能性があるとも言っている。

谿声山色:自然の中で悟りを得る

道元は、この巻で、大自然の中で悟りを開いた高僧を紹介している。

勿論、大自然の中に行けば、誰でも悟れるという訳ではない。ひたすら、修行を重ねているからこそ、そうした自然の中で、突然悟りを得ることができる。

さらに、道元は、その悟りの瞬間について、”居士の悟道するか、山水の悟道するか。”と不思議なことも言っている。人間が悟っているのか、自然の方が悟っているのか。

この言葉には、人間と自然が一体になり、ともに悟りを開くという、マクロコスモスとミクロコスモス、あるいは、山水画にも通じる思想が現れている。

道元がこの文章を書いたときは、彼は宇治の宝林寺にいた。この後、北陸の永平寺を建立する。この巻のように、そこで多くの弟子が悟りを得ることを望んだのだろう。

2012年5月24日木曜日

礼拝得随:女性を差別する思想に喝!

道元は、この巻で、世の中の偏見や形式主義について徹底して批判しているが、その中で、女性に対する偏見について、特に大きく取り上げている。

男性社会では、女性を性欲の対象としてしかみていないが、それは大きな間違いだ。男性も、女性からみれば、同じ性欲の対象ではないか。女性も男性も、不浄のもとであることに変わりはない、という。

妻を持っているかいないは、仏の教えを得ることとは全く関係がないとも言っている。また、女人禁制の場所についても、ばかばかしいことだと一笑にふしている。

礼拝得随:徹底した合理主義者の道元

道元は、仏の知恵を得るためには、一切の虚栄や形式主義を配する、徹底した合理主義者であった。

この巻で、道元は、相手が9才でも、優れた知恵を持っていれば、教えを請うし、100才であっても、知恵がないなら、ためらわず教える、ということを言っている。

また、自分自身についても、地位や年齢に関わらず、仏の知恵、仏の教え神髄を得る(得随)ためであれば、必要な修行を行うべきだとしている。

その徹底した思想には、ただただ脱帽するばかりだ。

2012年5月21日月曜日

洗浄:道元の素晴らしい描写力

『正法眼蔵』の他の巻では、道元は、いわゆる禅の公案について、一見、意味が分からないような、高尚な文章を書いている。

しかし、この洗浄の巻では一点。実に現実的な内容の文章を書いている。

トイレに行く時、どのようにタオルを持っていけばいいか、途中で人にあった時にどうするか、トイレに入って、どのように用を足すか、終わった後に、どのように洗浄するか・・・

そうしたことについて、驚くべき細かさで記述している。その描写力には、ただただ敬服。

しかし、道元は、この文章を書いているとき、実際に、自分もその動作をしながら、確認しながら書いたのだろうか?と考えると、道元が身近に感じられる。

洗浄:驚くべき内容

洗浄。これは、大小便のあとに、手を洗うことを意味する。この巻では、高等な教えが説かれている訳ではない。悟りについて、語られている訳ではない。なんと、トイレの行き方、便後の洗浄の仕方について、事細かに記されている。

これは、一般の人向けに書かれたものではない。明らかに、寺で修行している僧に対して書かれている。道元は、この『正法眼蔵』自体を、そうした僧侶に対して、語り、記したのだ。

道元に取っては、便後の洗浄も、重要な修行の1つであった。他にも、爪を切ること、髪を切ることも、修行の1つであるとしている。

道元という人物について、私たちは、哲学者や思想家をイメージしがちだが、それは大きな間違いだ。

2012年5月18日金曜日

即心是仏:霊知という存在を否定

道元は、実に現実的な思想を持っていた。

臨済宗の祖、臨済よりも道元が評価する、大証国師の言葉を引用しながら、インドにあるといわれる霊知論、つまり、死後も存在するという霊的な知の存在を、きっぱりと否定している。

禅という思想は、現実的な傾向が強い、中国で生まれた思想なのだ、ということが窺える。

即心是仏:安易な解釈を厳しく批判

即心是仏というと、心そのものが仏なのだ、という意味に思えてしまう。

しかし、道元によれば、それは大きな間違いで、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏であるとしている。

まだ修行中の僧侶は勿論、一般の人の心が、仏なのではない。そうした安易な解釈を道元は厳しく諫めている。

2012年5月14日月曜日

一課明珠:美しい世界のイメージ

この世界の全て(尽十方世界)は、明るい珠のようなものだ、という、この一課明珠ということばは、この世界を美しいものとして捉えている。

禅というと、渋いイメージがあるが、師備というお坊さんは、世界を明るいイメージで考えていた。

珠ということばからは、数珠をイメージする。数珠は、108つの煩悩を表すと言われているが、数珠の1つ1つが、美しい世界なのだ、と考えると、数珠に対する見方が大きく変わってくる。

一課明珠:玄沙師備のことばを巡って

一課明珠とは、宋の時代、福州の玄沙山に住んでいた師備という偉いお坊さんのことばをめぐって、展開される。

この師備という人は、もともとは、漁師を営んでいたが、30才頃に出家し、雪峰山の真覚大師に弟子入りした、という珍しい経歴を持っていた。

この師備が、悟りを得た後に、”この世は、美しい珠のようなものだ”と言った。弟子の一人が、”そのことばを、どのように理解したらいいでしょうか?”と聞くと、師備は、”それを理解してどうしようというのか”と答えたという。

道元は、そのエピソードを詳しく解説しながら、”この世が、明珠であるかどうかは、どうでもいいことだ”と語っている。

道元は、ことばの定義に捉われるな、ということを言いたかったのかもしれない。

2012年5月6日日曜日

現状公案:多くの例え話を使って

道元は、この巻の中で、自分の考えをわかりやすく伝えるために、いろいろな例え話を使っている。

舟に乗っていると、周りの景色が動いているように見えるが、実は自分が動いているのだ、という相対性理論のような例え話が出てきて、驚く。

薪(生)は灰(死)となるが、それを薪が先で、灰は後と考えるのは間違っている、という。薪は薪、灰は灰、と別々に考えるべきだと。これは、ヒュームの考えに近い。

船で海に出てしばらくすると、山が見えなくなるが、山がなくなる訳ではない。

などなど。

1つ1つの例え話は、実にわかりやすいが、その裏に隠れているもは、とてつもなく深い。

2012年5月4日金曜日

現成公案:わかりやすい文章

正法眼蔵は、むずかしい、わかりにくい、と言われるが、この巻に限っては、実にわかりやすい。

「諸仏のまさしく諸仏となるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。」

「仏道をならうといふは、自己をならう也。自己をならうといふは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」

「人のさとりをうる、水に月のやどるごとし。月ぬれず、水やぶれず。」

いずれも、現代語に訳さなくても、その意味は大体わかる。

摩訶般若波羅蜜:道元の思想の本質

摩訶般若波羅蜜とは、大いなる知恵の成就という意味。

道元は、この巻のほとんどを、『般若心経』や『大般若経』などからの経文で構成している。それらの経分は、とにかく、仏が説いた内容を、ただよく学び、声を出して何度も唱えること、それを敬うこと、といった内容を語っている。

最後に道元は、仏の存在自体。仏がこの世に存在したということが、まさに、大いなる知恵の成就であったと、記している。

おそらく、それらのことは、道元が伝えたいこと、あるいは信じていること、実行していることの、核にある、本質的な考えであったに違いない。