道元は、自らの師にあたる、如浄大和尚から、仏祖を継承するのは、必ずしも、時間の流れによるのではない、と教えられる。
時代が前の人から、後の人に継承(嗣法)されるのではない。単に、仏祖から仏祖に継承される、と考えろと教えられる。
釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学し、迦葉仏は釈迦仏に嗣法せりと学するなり。
道元が、他の巻において、時に時間の流れに捉われないように、と説いているのは、この師の言葉が、その原点にあるのかもしれない。
2012年8月26日日曜日
嗣書:仏祖継承の証明書
嗣書とは、仏祖継承の証明書であり、それがないと、仏祖を継承したことを、それこそ証明することはできない。
道元は、宋を訪れた際に、あちこちで、いろいろな種類の嗣書を見たことを、この巻で述べている。
道元が継承した曹洞宗の嗣書については、達磨大師から数えて六代目の慧能大和尚が、自らの血を使って書いたのが、その始まりであるという。
道元は、宋を訪れた際に、あちこちで、いろいろな種類の嗣書を見たことを、この巻で述べている。
道元が継承した曹洞宗の嗣書については、達磨大師から数えて六代目の慧能大和尚が、自らの血を使って書いたのが、その始まりであるという。
仏祖:自らの正統性の証明
仏祖という短い巻の中で、道元は、57人の歴代の仏祖の名前を、紹介し、最後に、自分は、宋を訪れて、その後を継ぐ物として、仏祖を引き継いだのだ、としている。
何か、道元の正統性を疑う事態が発生したのだろうか?あるいは、道元が、今後のために、それを書き残す必要性を感じたのだろうか?
いずれにしろ、自らの正統性を、この巻で表そうとしている。
何か、道元の正統性を疑う事態が発生したのだろうか?あるいは、道元が、今後のために、それを書き残す必要性を感じたのだろうか?
いずれにしろ、自らの正統性を、この巻で表そうとしている。
山水経:山水画の本質
山水画は、自然を描いたのではなく、心を描いたものと、よく言われる。
道元は、この巻の中で、山と水について、次のように述べている。
山は超古超今より大聖の所居なり。
あるいはむかしよりの賢人聖人、まさに水にすむもあり。
聖人といわれる人々は、山の中に住んだり、あるいは、水の近くで暮らすことで、大いなる悟りを得る、という。
道元は、禅を学びに宋を訪れ、そこで中国の山水に触れて、その本質を理解したのだ。
道元は、この巻の中で、山と水について、次のように述べている。
山は超古超今より大聖の所居なり。
あるいはむかしよりの賢人聖人、まさに水にすむもあり。
聖人といわれる人々は、山の中に住んだり、あるいは、水の近くで暮らすことで、大いなる悟りを得る、という。
道元は、禅を学びに宋を訪れ、そこで中国の山水に触れて、その本質を理解したのだ。
山水経:自然の見方に再考を促す
道元は、現代の私たちに対して、自然に対する見方の反省を迫るように、高僧の言葉を、この巻で紹介している。
青山常運歩、石女夜生児(太陽山 道楷和尚)
東山水上行(雲門匡真大師)
道元は、この他にも、”山は動かない”、”水は流れる”といった、常識について、かならずしもそうではない、ということを、繰り返し述べている。
青山常運歩、石女夜生児(太陽山 道楷和尚)
東山水上行(雲門匡真大師)
道元は、この他にも、”山は動かない”、”水は流れる”といった、常識について、かならずしもそうではない、ということを、繰り返し述べている。
山水経:自然に仏の道が現れる
而今の山水は、古仏の道現成なり。
現在の山水は、古い仏の道が、現実化したものである。
この不思議な言葉で、この山水経は始まる。
仏の説く道は、単に、人間世界のことだけではなく、自然世界のことまで含んでいる、というこの道元の言葉は、仏教=宗教あるいは道徳、と考える人々の常識に対して、大きな反省を迫っている。
現在の山水は、古い仏の道が、現実化したものである。
この不思議な言葉で、この山水経は始まる。
仏の説く道は、単に、人間世界のことだけではなく、自然世界のことまで含んでいる、というこの道元の言葉は、仏教=宗教あるいは道徳、と考える人々の常識に対して、大きな反省を迫っている。
2012年8月18日土曜日
伝衣:道元の原体験
道元が、ここまで袈裟にこだわる、その原因は何だったのだろうか?
道元は、宋に渡って修行している最中に、目撃した1つの事象を語っている。
隣の席にいた一人の僧が、毎朝、起床する時に、まず、袈裟を高い場所に置いて、合掌をして、経を唱えていた。
それを見た道元は、未だかつてない思いを感じ、思わず涙を流したという。
その光景こそが、道元が、そこまで袈裟にこだわる、原体験、というべきものだった。
道元は、宋に渡って修行している最中に、目撃した1つの事象を語っている。
隣の席にいた一人の僧が、毎朝、起床する時に、まず、袈裟を高い場所に置いて、合掌をして、経を唱えていた。
それを見た道元は、未だかつてない思いを感じ、思わず涙を流したという。
その光景こそが、道元が、そこまで袈裟にこだわる、原体験、というべきものだった。
伝衣:やつれたる衣服とは何か
道元は、当時の堕落した仏教界を、最も強く批判した仏教家の一人だった。
この伝衣の巻でも、次のように語っている。
やつれたる衣服ならんことは、錦繍綾羅・金剛珍珠等の衣服の、不浄よりきたれるを、やつれたるというなり。
衣服がやつれているとは、衣服が実際に汚れているということではなく、立身出世したいとか、金持ちになりたいという不純な気持ちで、絢爛豪華な衣服を着ていることこそ、やつれている、というのだ。
道元は、”形”に徹底的にこだわった人物だが、それはあくまでも、心あっての形であって、形だけでは、何の意味もないことを、生涯訴え続けていた。
この伝衣の巻でも、次のように語っている。
やつれたる衣服ならんことは、錦繍綾羅・金剛珍珠等の衣服の、不浄よりきたれるを、やつれたるというなり。
衣服がやつれているとは、衣服が実際に汚れているということではなく、立身出世したいとか、金持ちになりたいという不純な気持ちで、絢爛豪華な衣服を着ていることこそ、やつれている、というのだ。
道元は、”形”に徹底的にこだわった人物だが、それはあくまでも、心あっての形であって、形だけでは、何の意味もないことを、生涯訴え続けていた。
伝衣:袈裟への道元のこだわり
この伝衣の巻は、直前の袈裟功徳とほぼ同じ内容。出だしの文章もそっくりだ。
わざわざ、同じ内容で2つの文章を残そうと思ったのか、あるいは、どちらかは、下書き的な意味合いだったのだろうか?
袈裟はこれ仏身なり、仏心なり。
いずれにしても、上の言葉に、道元の、袈裟に対する、ただならぬ思入れを感じることができる。
わざわざ、同じ内容で2つの文章を残そうと思ったのか、あるいは、どちらかは、下書き的な意味合いだったのだろうか?
袈裟はこれ仏身なり、仏心なり。
いずれにしても、上の言葉に、道元の、袈裟に対する、ただならぬ思入れを感じることができる。
2012年8月16日木曜日
袈裟功徳:在家の人も袈裟を持て
道元は、在家の人も、袈裟を持ち、時にそれを着るとよい、と言っている。
中国では、梁の武帝、随の煬帝といった偉大な皇帝は、袈裟を持っていた。日本では、聖徳太子、聖武天皇が袈裟を持っていたという。
また、袈裟に対して唱える文句まで、この巻で紹介している。
大哉解脱服
無相福田衣
被奉如来教
広度諸衆生
中国では、梁の武帝、随の煬帝といった偉大な皇帝は、袈裟を持っていた。日本では、聖徳太子、聖武天皇が袈裟を持っていたという。
また、袈裟に対して唱える文句まで、この巻で紹介している。
大哉解脱服
無相福田衣
被奉如来教
広度諸衆生
袈裟功徳:袈裟の管理の仕方
洗浄の巻において、トイレの所作について、事細かに解説した道元は、この巻では、袈裟の洗い方について、またまた、細かに記している。
それによると、ゴシゴシと洗うのではなく、付け洗いがよいとのこと。最後は、香を冷水にいれて、袈裟をつけて、香のにおいをつける。
よく乾かしたら、大切なたたんでから、3、6、あるいは9回礼拝してから、しまうように指定している。
道元にとっては、袈裟は、お釈迦様、あるいはその教え、そのものだった。
それによると、ゴシゴシと洗うのではなく、付け洗いがよいとのこと。最後は、香を冷水にいれて、袈裟をつけて、香のにおいをつける。
よく乾かしたら、大切なたたんでから、3、6、あるいは9回礼拝してから、しまうように指定している。
道元にとっては、袈裟は、お釈迦様、あるいはその教え、そのものだった。
袈裟功徳:お釈迦様の衣が中国にある
道元によれば、お釈迦様がその教えとともに弟子に伝えた、自らの衣は、その後、中国に伝えられ、曹渓山宝林寺に残されているという。今でも残っているのだろうか?
この衣を持っている、ということが、仏祖の正統なる後継者、ということを意味するのだろう。
キリスト教にも、トリノの聖骸布、というものがある。自らが慕う人間が身につけていたものを尊ぶ習慣は、人間の根本的な思いなのだ。
この衣を持っている、ということが、仏祖の正統なる後継者、ということを意味するのだろう。
キリスト教にも、トリノの聖骸布、というものがある。自らが慕う人間が身につけていたものを尊ぶ習慣は、人間の根本的な思いなのだ。
袈裟功徳:形にこだわる道元
坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。という言葉にある通り、仏教僧と袈裟は、切っても切れない関係にある。
この袈裟功徳の巻で、道元は、この袈裟に対して、徹底したこだわりを見せる。道元によれば、仏祖は、その教えを、一番弟子に対して、袈裟といっしょに伝えた。仏の教えは、袈裟といっしょに伝えられたのであって、それと切り離して考えることができない。
禅とは、座禅を組むことで、仏祖と同じ体験をすることで、同じ悟りを得ようと言う信仰であり、”形から入る”のがその思想の根本にある。
袈裟、という形あるものにこだわる道元の思いは、まさに禅の本質的な思いなのだ。
この袈裟功徳の巻で、道元は、この袈裟に対して、徹底したこだわりを見せる。道元によれば、仏祖は、その教えを、一番弟子に対して、袈裟といっしょに伝えた。仏の教えは、袈裟といっしょに伝えられたのであって、それと切り離して考えることができない。
禅とは、座禅を組むことで、仏祖と同じ体験をすることで、同じ悟りを得ようと言う信仰であり、”形から入る”のがその思想の根本にある。
袈裟、という形あるものにこだわる道元の思いは、まさに禅の本質的な思いなのだ。
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