洗浄で、用を足すための詳細なプロセスを、ことこまかに解説した道元。
この巻では、看経のプロセスを、またも詳細にわたり、説明している。
看経とは、僧ではない一般の人が、お布施をして、僧に依頼し、依頼された僧が、その依頼者のために、法華経などの主要なお経を、静かに読む、というプロセスだ。
自分で読むのではなく、僧が読むというのが、大きな特徴。そもそも、一般人は、現代のような、やさしい解説本がある訳ではないので、難しいお経を読むことは出来なかったのだろう。
言葉がまだ大きな力を持っていた時代、教えがまだ大きな意味を持っていた時代においては、僧に経を読んでもらうことは、有り難いことであったのだろう。
言葉や教えの価値が薄れた現代人にとっては、看経の有り難さは、わからなくなってしまった。
2012年10月30日火曜日
看経:経を読むことはそんなに簡単なことではない
現代においては、法華経が文庫本で読めるくらいに、経は身近なものになっている。
しかし、この看経の巻を読むと、道元は、経を読むということについては、そんな簡単なものではないと語っている。
仏経にあふことたやすきにあらず。
仏祖にあらざれば、経巻を見聞・読誦・解義せず。
仏祖にならなければ、経の意味を理解するどころか、それを読むことさえ出来ないという。道元の、厳しい一面をかいま見る気がする。
しかし、この看経の巻を読むと、道元は、経を読むということについては、そんな簡単なものではないと語っている。
仏経にあふことたやすきにあらず。
仏祖にあらざれば、経巻を見聞・読誦・解義せず。
仏祖にならなければ、経の意味を理解するどころか、それを読むことさえ出来ないという。道元の、厳しい一面をかいま見る気がする。
2012年10月11日木曜日
古鏡:瓦を研いで鏡を作る
南學と馬祖の、鏡についてのエピソード。
ひたすら座禅をする馬祖に対して、南學が尋ねる。
南學「何のために座禅をしているのか?」馬祖「仏になるためです」
南學は、瓦を持ちだして、それを研ぎ始めた。
今度は、馬祖「何のために瓦を研いでいるのですか?」南學「鏡を作るためだ」
すると、馬祖「瓦を磨いて鏡が出来るのでしょうか?」
南學がすかさず答える「座禅をするだけで、お前は、仏になれるのか?」
最後に、道元は次のように締めくくる。
凡人は、瓦を研いでも鏡は作れない、座禅をしても仏にはなれない。
座禅をして仏になれる人は、瓦を研ぐことで、鏡を作ることができる。
ひたすら座禅をする馬祖に対して、南學が尋ねる。
南學「何のために座禅をしているのか?」馬祖「仏になるためです」
南學は、瓦を持ちだして、それを研ぎ始めた。
今度は、馬祖「何のために瓦を研いでいるのですか?」南學「鏡を作るためだ」
すると、馬祖「瓦を磨いて鏡が出来るのでしょうか?」
南學がすかさず答える「座禅をするだけで、お前は、仏になれるのか?」
最後に、道元は次のように締めくくる。
凡人は、瓦を研いでも鏡は作れない、座禅をしても仏にはなれない。
座禅をして仏になれる人は、瓦を研ぐことで、鏡を作ることができる。
古鏡:国家みな鏡を伝授する
鏡に関して、道元は、次の2つのエピソードを紹介している。
伝説上で、中国の最初の皇帝とされる、黄帝の時代には、十二枚の鏡があったという。
また、日本の神話では、三枚の鏡が登場し、そのうちの1枚は、いわゆる三種の神器の1つになっている。
道元は、こうしたエピソードを紹介して、
国家みな鏡を伝授することあきらかなり
と書いている。
鏡の重要性を語っているのだが、仏教の世界ではなく、”国家”の話でそれを裏付けるというのは、道元にしては、珍しい。
伝説上で、中国の最初の皇帝とされる、黄帝の時代には、十二枚の鏡があったという。
また、日本の神話では、三枚の鏡が登場し、そのうちの1枚は、いわゆる三種の神器の1つになっている。
道元は、こうしたエピソードを紹介して、
国家みな鏡を伝授することあきらかなり
と書いている。
鏡の重要性を語っているのだが、仏教の世界ではなく、”国家”の話でそれを裏付けるというのは、道元にしては、珍しい。
古鏡:鏡にまつわる不思議な巻
この巻は、鏡にまつわる不思議なエピソードがたくさん紹介される。
その極めつけは、冒頭で紹介される、第十八伽耶舎多尊者の話。この高僧は、母親が鏡にまつわる夢を見て、その7日後に生まれた。そして生まれたと同時に、鏡が自然と現れ、常に側にその鏡がいたという。
この鏡には、この世の全ての事が映されていたという。
道元というと、”鬼神を語らず”というイメージが強いだけに、このエピソードには驚かされた。
その極めつけは、冒頭で紹介される、第十八伽耶舎多尊者の話。この高僧は、母親が鏡にまつわる夢を見て、その7日後に生まれた。そして生まれたと同時に、鏡が自然と現れ、常に側にその鏡がいたという。
この鏡には、この世の全ての事が映されていたという。
道元というと、”鬼神を語らず”というイメージが強いだけに、このエピソードには驚かされた。
2012年10月7日日曜日
心不可得(後):身心の問題を参究すべし
2巻にわたり、心不可得というテーマについて論じた後で、道元は次の言葉で、この巻を終えている。
およそ仏道に身心を談ずること、仏仏祖祖の会におほし。ともにこれを参学せんことは、凡夫賢聖の念慮知覚にあらず。心不可得を参究すべし。
体と心の問題は、釈迦の時代から、常に仏教の世界において、最重要のテーマだった。
道元は、私たちに、ひたすらその問題と取り組むように訴える。
およそ仏道に身心を談ずること、仏仏祖祖の会におほし。ともにこれを参学せんことは、凡夫賢聖の念慮知覚にあらず。心不可得を参究すべし。
体と心の問題は、釈迦の時代から、常に仏教の世界において、最重要のテーマだった。
道元は、私たちに、ひたすらその問題と取り組むように訴える。
心不可得(後):道元の合理的な精神
この巻は、前半は、直前の心不可得(前)と全く同じ。心について尋ねる餅売りの老婆について書いている。
この老婆について、一般的には、かなりの仏知識を持った人物と考えられるが、道元は、そんなことは、このエピソードからではわからないという。
この老婆は、確かに高僧も答えに窮するような、するどい質問を投げかけることはできるが、しかし、その答えを自ら、高僧に返すことはしなかった。
よって、この老婆の本当にレベルは、わからないという。
こんなところに、通説の内容にも、納得しなければ鵜呑みにしない、道元の合理的な精神を見て取ることができる。
この老婆について、一般的には、かなりの仏知識を持った人物と考えられるが、道元は、そんなことは、このエピソードからではわからないという。
この老婆は、確かに高僧も答えに窮するような、するどい質問を投げかけることはできるが、しかし、その答えを自ら、高僧に返すことはしなかった。
よって、この老婆の本当にレベルは、わからないという。
こんなところに、通説の内容にも、納得しなければ鵜呑みにしない、道元の合理的な精神を見て取ることができる。
心不可得(前):書物だけの思想を批判
この巻で、道元は、面白いエピドードを紹介する。
『金剛般若経』を極め、その解説書を著した高僧が、旅の最中に、餅売りの老婆に、点心(おやつ)として餅を所望した。
その老婆は、相手が『金剛般若経』を極めた高僧と知り、次のように問いかける。
「そのお経に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得とあるが、いまあなたが点じようとしている心は、どの心か?」
その高僧は、この老婆の問いに、答えることができなかった。
道元は、このエピソードを通じて、仏の教えは、決して書物を通しては、習得できないということを示している。
『金剛般若経』を極め、その解説書を著した高僧が、旅の最中に、餅売りの老婆に、点心(おやつ)として餅を所望した。
その老婆は、相手が『金剛般若経』を極めた高僧と知り、次のように問いかける。
「そのお経に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得とあるが、いまあなたが点じようとしている心は、どの心か?」
その高僧は、この老婆の問いに、答えることができなかった。
道元は、このエピソードを通じて、仏の教えは、決して書物を通しては、習得できないということを示している。
心不可得(前):ヨーロッパ近代哲学にも通じるテーマ
この巻の題名、心不可得とは、『金剛般若経』の次の言葉から取られている。
過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。
道元は、この教えを、”仏祖の参究”(参禅することで真理を究める)であるという。
心不可得。これは、デカルト以来の近代哲学が追い求めたテーマとも相通じるものを感じる。
過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。
道元は、この教えを、”仏祖の参究”(参禅することで真理を究める)であるという。
心不可得。これは、デカルト以来の近代哲学が追い求めたテーマとも相通じるものを感じる。
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