2013年1月29日火曜日

仏向上事:悟りとは何か

道元にとって、悟りとは、どんなものだったのか。その一つの答えが、この巻で、語られている。

修証は無にあらず、修証は有にあらず、不知なり、不得なり。

悟りとは、無いというわけではないが、有るというわけでもない。有るとか無いとかを、知ることができないものであり、得るという概念で、語ることができないものである。

悟りとは、悟った者でないと、わからないものであり、それを、言葉で他人に伝えることは、できないということなのであろう。

仏向上事:仏向上事とは何か

この巻の名前にもなっている、仏向上事、とは、あまり、聞きなれない言葉だ。

道元は、この言葉のいみを、次のように説明している。

いわゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。

仏になったとしても、それで終わりではなく、さらに修行をつづけ、さらなる目標として、仏を目指すということだという。

道元は、ことの結果よりも、そこへの過程を、より重視していた。あるいは、この世を生きるということを、静的なものでなく、動的なものと、考えていた。

2013年1月20日日曜日

坐禅箴:道元にとって坐禅とは何か

道元の坐禅にたいする考え方は、この巻の、次の言葉に現れている。

おおよそ西天東地に仏法つたわるるといふは、かならず坐仏のつたわるるなり。

ここをもて、仏祖かならず坐禅を単伝すると一定すべし。

そして、現代の僧たちが、宋も含めて、坐禅を重んじず、坐禅をすることを知らない、と嘆いている。

坐禅箴:道元お好みのエピソード

道元は、この巻で、かつて紹介した、南嶽と馬祖のエピソードをふたたび紹介している。

南嶽が、馬祖に、禅をしてなにを得ようとしているのか、と尋ねる。

馬祖は、作仏をしようとしている、と答える。作仏は、仏になろうとしている、というほどの意味だろう。

すると、南嶽は、瓦を磨ぎ始める。馬祖が、逆に、何をしようとしているかを尋ねる。

南嶽は、瓦を磨いて、鏡を作ろうとしているのだ、と答える。

馬祖は、瓦を磨いて鏡を作ることはできないのでは、と答えると、南嶽も、坐禅をすることで、仏にはなれない、とやりかえす。

道元は、よっぽど、この話が好きであったにつがいない。

しかし、南嶽は、決して、坐禅自体を、低く見ていたのではない、というのが、このエピソードのミソでもある。道元は、それを、実に長々と、この巻で解説している。

2013年1月3日木曜日

大悟:宋の僧侶の悟り信仰を批判

道元は、当時の宋の僧侶たちに一般的だった、悟りへの妄信的な信仰を批判している。

近日大宋国、禿子いはく、悟道是本期、かくのごとくいひていたずらに待悟す。(中略)ただ真善知識の参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。

皆、悟りの訪れることを、ただただ待っているだけだという。道元にとっては、悟りとは向こうからやってくるものではなく、日々の厳しい行いの延長にあるものだった。

大悟:道元の悟りのイメージ

仏とは、悟りを得た存在であるが、道元は、必ずしも仏=悟りではない、ということを、次の言葉で表現している。

仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。

また、一度悟ったからといって、二度と迷わない、というわけでもない。

大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。