2012年6月23日土曜日

有時:思想の時代性

道元は、人間の考えとは、時によって変わるものだと、考えていたようだ。

「疑著せざれども、しれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎事を擬著すること一定せざるがゆえに、擬著する前程、かならずしもいまの擬著に符合することなし。ただ擬著しばらく時なるのみなり。」

物事を疑っている訳ではないが、だからといって知っている訳ではない。あらゆることについての疑っているが、考えは一定ではない。そもそも、疑っている前提や疑い方が、時代とともに変わっている。疑うということ自体が、時というものなのだ。

最後は、再び、存在と時間の関係に戻っている。

有時:道元の時間論

この巻では、道元の時間論が語られる。ここでも、道元は、時間は過去から現在そして未来に流れるものである、という常識を否定している。

「有時に経暦の功徳あり。いわゆる、今日より明日に経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日に経歴す、今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。」

また、こんなことも書いている。

「山も時なり、海も時なり。時も壊すれば山海も壊す、時もし不壊ならば山海もまた不壊なり。」

時間がなければ、存在自体がないと言っている。

諸悪莫作:言うは易く行うは難し

道元は、白居易と道林禅師のやりとりを紹介している。

白居易「仏教の大意とは何でしょうか?」

道林禅師「悪いことを行わず、正しいことを行うことだ。」

白居易「そんな簡単なことであれば、3才の童子でも知っていることではないですか。」

道林禅師「3才の童子でも、知ることができるほど単純なことだが、80才の老人でも、それを実践することは、難しい。」

道元に取っては、仏教等は、知識ではなく、あくまでも実践であったのだ。

諸悪莫作:因果という言葉について

道元は、衆善奉行という言葉を解説するにあたり、因果について、次のように書いている。

因はさき、果はのちなるにあらざれども、因円満し、果円満す。因にまたれて果感ずるといへども、前後にあらず。

因果は、因が先に会って、果が後にある、というものではない。因が満たされて、果が満たされる。これは、どのように解釈したらいいのか?

ヒュームが因果論を否定した論理とは少し違っているが、私たちが、当たり前と考えると、原因と結果、という考え方に対して、大いなる反省を迫っていることには、違いない。

諸悪莫作:衆善ただ奉行なるのみ

衆善奉行という言葉を解説する道元。

衆善、有・無・色・空等にあらず、ただ奉行なるのみ。

善とは、それがどんなものであるか、ということを解釈、議論しても意味がない。ただそれを行うこと、実践することに意味がある、と道元は言う。

では、そのなすべき善とは何だろうか?

そう問えば、おそらく道元から、すぐに”喝”という声が返ってくるに違いない。

諸悪莫作:自己は有にあらず無にあらず、莫作なり

諸悪莫作の巻は、どの仏教の宗派にも共通する教え、”諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教”という言葉を解説している。

中でも、諸悪莫作という言葉について、長々と解説しているが、その内容が哲学的だ。

善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず。諸悪は因縁生にあらず、ただ莫作なるのみなり。諸悪は因縁滅にあらず、ただ莫作なるのみなり。

その流れの中で、道元は、次の言葉を記している。

自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。

これは、解釈によっては、ニーチェにもつながる、西洋哲学的な内容で、現代の私たちが道元を、哲学者と考えたくなるのもわかる。しかし、道元の真意はわからない。ただ単に、文章の流れで、そう書いているようにも思える。