2019年6月16日日曜日

三界唯心:世界とは何か

道元が、この三界唯心を書いた時、道元は後に永平寺となる、福井の山奥にいた。

この後の正法眼蔵の各艦は、基本的には今の永平寺で書かれたということになる。

そうした背景もあるのだろうか。この三界唯心の巻は、実に壮大なテーマになっている。

この世(三界)は、全ては心の中にある、という華厳経にある、いわゆる唯神論を冒頭で紹介した後で、道元は明確にその考えを否定する。

三界はすなわち心というにあらず。

その後、道元独特の、言葉をめぐる様々な論考が展開される。

法華経にある言葉、不如三界、見於三界、を紹介し、世界(三界)を見るには、世界(三界)そのものによって見るより他に良い方法ない、という、いかにも禅問答のような、道元の言葉が続いていく。

自分も周りに、目の前にあるこの世界は、それは一度は心に中に取り込まれて解釈はされるものの、その世界そのものを、そのままに受け入れる、ということなのだろうか。

京都とは違った、福井の山々の壮大な自然が、道元のこの巻に何らかの影響を与えたのかもしれない。

2014年6月8日日曜日

葛藤:仏祖から伝わるリアルなもの

葛藤とは、仏教の世界では、現在私たちが使っている言葉とは、意味が少し異なるらしい。

仏教では、葛藤とは、教えの取得を妨げる、難解な表現などのことをいう。

しかし、道元は、ここではそうした細かい意味には囚われていない。

道元は、仏祖から、その次の世代に伝わる方法を、皮肉骨髄、として表現する。

その言葉によって、道元は、直接、具体的な形で、師から弟子に伝えられるものを表現したかったのだろう。

皮肉骨髄という、何ともリアルな、論理的ではない、肉感的な言葉からは、道元のバロック、グロテスク、あるいはアヴァンギャルドな精神が伝わってくるような気がする。

2013年12月30日月曜日

菩提薩埵四摂法:神や政治のことを論じる

この巻では、他の巻ではあまり論じられる機会のないテーマが論じられる。

かの琴詩酒は、人をともとし、天をともとし、神をともとす。

神という言葉が登場する。道元も、普通の日本人のように、神と仏が、その心の中では共存していたのだろうか。

また、諸子百家の管子の言葉、明主は、どんな人でも差別せずに受け入れる、という趣旨の言葉を紹介している。

菩提薩埵四摂法:他の巻とは少し違っている

この巻は、他の巻とは少し違っている。

普通は、高僧の言葉などの解釈で始まるケースが多いが、この巻では、菩提となるための修行を行う人が、行うべき4つの行いを、順番に紹介している。

その4つとは、布施、愛語、利行、同事。

布施は、文字通りお布施を施すことだが、そこには、自分に対することも含むべき、という部分が興味深い、

愛語は、相手に対して愛を持って言葉を発すれば、その言葉は、愛のある言葉になる、ということ。

利行とは、他人の対して、利となることをしろ、ということ。

最後の同事は、あらゆるものを、拒まず、等しく取り扱う、ということ。

いずれも、そも説明は、概ねわかりやすい。他の巻のような、難解な議論は一切ない。

古仏心:古仏心とは壁や瓦の破片である

古仏とは、釈迦牟尼以降、仏となった代々の高僧のことである。

では、古仏心とは何か。

それは、壁や瓦の破片である、とある高僧は言った。

道元は、それが、どういう意味を持っているかを、ひたすら考えるべきだと言う。

空華:仏の世界は虚空の華のようだ

月の次は、華。

一華開五葉、結果自然成。

この巻は、中国に禅を伝えた達磨大師の言葉から始まる。

仏教の世界では、仏の世界を、虚空の華として例えるようだ。

諸仏諸祖、ひとり空華・地華の開落をしり、世界華等の開落をしれり。

悟りを得た者だけが、そうしたことを知るのだという。

都機:この世の全ては月の中にある

仏真法身、猶若虚空。応物現形、如水中月。

仏の本質は、形がなく虚空であり、それが姿を現す場合は、まるで水の中に移る月のようだ。

金剛明経における、釈迦牟尼の言葉を冒頭で紹介し、この巻では、その言葉を巡った道元の考えが展開される。

この巻の名前、都機、は、つき、つまり月を表すのだろう。道元のシャレだろうか。

生死去来ともに月にあり、尽十方界は月中の上下左右なるべし。

この世の全ては、月の中で起こっていることだという。