自己の知する法、かならずしも自己の有するところにあらず。自己の有、かならずしも自己の知るところにあらず。
自分が知っているからと言って、それを自分が持っているというわけではない。その逆に、自分という存在の中には、自分でも気づかないものが、無数に隠されている。
自分のという存在の限界、逆のその可能性を、この道元の言葉は、よく言い表している。
2013年6月13日木曜日
授記:いつ仏祖から悟りの時期を知らされるのか
授記とは、仏教の世界では、仏祖が弟子に対して、その成仏について予言することいみする。
その授記という言葉について、道元は、
授記は仏祖単伝の王道なり
として、その意味を継承しつつ、その時期については、どんな時にも起こりうるとしている。
その授記という言葉について、道元は、
授記は仏祖単伝の王道なり
として、その意味を継承しつつ、その時期については、どんな時にも起こりうるとしている。
海印三昧:道元の存在と時間
従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり。
存在は、私ではなく法であって、それは絶対的な存在である。存在が滅して、そのすぐ後に、再び存在が起こっても、それは原因と結果ではない。ただ単に、法が起こった、ということである。
この言葉には、道元の、存在と時間、ともいうべき考え方が、よく現れている。
存在は、私ではなく法であって、それは絶対的な存在である。存在が滅して、そのすぐ後に、再び存在が起こっても、それは原因と結果ではない。ただ単に、法が起こった、ということである。
この言葉には、道元の、存在と時間、ともいうべき考え方が、よく現れている。
海印三昧:海印三昧とは何か
海印三昧とは、まったく聞きなれない言葉だ。
文字としての意味は、仏が悟りを得ている状態を、海に例えていることのようだ。
では、具体的には、どんな真理なのか?
起はただ法の起なり、滅はただ法の滅なり。我起とは言わず、我滅とは言わず。
道元は、ある経典の言葉を引用して、そのように表現している。
個人が成仏するとか、悟りを開くという考え方を否定して、仏法が、ある人物を通して、現成する、といった意味だろうか。
文字としての意味は、仏が悟りを得ている状態を、海に例えていることのようだ。
では、具体的には、どんな真理なのか?
起はただ法の起なり、滅はただ法の滅なり。我起とは言わず、我滅とは言わず。
道元は、ある経典の言葉を引用して、そのように表現している。
個人が成仏するとか、悟りを開くという考え方を否定して、仏法が、ある人物を通して、現成する、といった意味だろうか。
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