道元にとっては、ほとけの教えとは、この世界そのものだった。
仏心というは、・・・、山海国土・日月星辰なり。
仏教というは、万象森羅なり。
また、道元独特の対比表現で、次のようにも書いている。
ほとけ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。
2012年12月24日月曜日
仏教:道元の仏教とは
聞き慣れた仏教、という言葉。
道元は、この巻で、仏教について、次の定義を行っている。
諸仏の道現成、これ仏教なり。
つまり、仏の教え、行いが、仏教であるという。
私たちが今日使う、宗教の一つとしての仏教、という意味とは大きく違っている。
さらに、道元は理論を展開し、三乗十二分教、九分教こそが、仏の本来の教え(=仏教)であり、これを体得しないものは、仏を継ぐものとはいえない、という。
道元は、この巻で、仏教について、次の定義を行っている。
諸仏の道現成、これ仏教なり。
つまり、仏の教え、行いが、仏教であるという。
私たちが今日使う、宗教の一つとしての仏教、という意味とは大きく違っている。
さらに、道元は理論を展開し、三乗十二分教、九分教こそが、仏の本来の教え(=仏教)であり、これを体得しないものは、仏を継ぐものとはいえない、という。
2012年12月11日火曜日
行仏威儀:仏の行いは自由自在
道元によれば、仏の行い、行仏威儀は、無礙すなわち自由自在である。
それは、草鞋のなかの足の指の動きであり、おならの音であり、うんちの香り、であるという。
また、道元独特の時間論も、この巻で展開される。
古今の時にあらずといへども、行仏の威儀忽爾として行尽するなり。
行仏威儀は、過去のある時に行われるのではない、現在に行われるのではない。ただ、それが行われる時に、行われるのである、と道元は言う。
それは、草鞋のなかの足の指の動きであり、おならの音であり、うんちの香り、であるという。
また、道元独特の時間論も、この巻で展開される。
古今の時にあらずといへども、行仏の威儀忽爾として行尽するなり。
行仏威儀は、過去のある時に行われるのではない、現在に行われるのではない。ただ、それが行われる時に、行われるのである、と道元は言う。
行仏威儀:人間中心主義を批判
道元は、この行仏威儀の間の中で、仏という存在を通して、人間中心主義を批判している。
仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。
諸仏は唯人間のみ出現すといはんは、仏祖のこん奥にいらざるなり。
道元にとって、仏とは、人間の教えということではなく、自然の法則のようなもの、をイメージしていたようだ。
仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。
諸仏は唯人間のみ出現すといはんは、仏祖のこん奥にいらざるなり。
道元にとって、仏とは、人間の教えということではなく、自然の法則のようなもの、をイメージしていたようだ。
行仏威儀:行仏威儀とは何か?
行仏威儀。難しい言葉だ。現代の人間には、まったく何のことかわからない。
道元は、この巻の最初と最後で、次のように書いている。
諸仏かならず威儀を行足す。これ行仏なり。
法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。ともに行仏の威儀なり。
仏が行う、仏特有の行為、とでもいったところだろうか?
この間の中では、道元独特の表現で、その行仏威儀について、書いている。
道元は、この巻の最初と最後で、次のように書いている。
諸仏かならず威儀を行足す。これ行仏なり。
法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。ともに行仏の威儀なり。
仏が行う、仏特有の行為、とでもいったところだろうか?
この間の中では、道元独特の表現で、その行仏威儀について、書いている。
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